Masuk
代わり映えのない日々が過ぎていく。
あれから半年。新しい出会いもなく、それを求めようともしていない。
自分自身が枯れているのではないかと感じてしまう。
今月の新刊の棚の前で小さく息を吐いて、
真尋の勤めている「
毎日毎日、何百冊という本が世に出ている。けれど、その運命を左右するのは最初の一週間と言っても過言ではない。それまでに売れなければ、その本はどんどんと隅に追いやられていく。
だから真尋はPOPに力を入れる。手書きの文字と短い紹介文で、通りすがりの客の目をとめること。それが書店員としての真尋にできる、数少ない仕事のひとつだった。
新刊を並べ終えてPOPを立てかける。指先がインクでわずかに汚れていた。
真尋自身もまるで、棚に埋もれた一冊のように感じることがある。
半年前、三年間付き合っていた
けれど人間というのは単純なもので、ひと月もすればすっかり元の生活に戻れた。朝起きて、本を並べて、POPを書いて、帰って寝る。そのくり返し。だが、心の中の傷はなかなか癒えない。自分の好意が重すぎるとわかってからは、それを抑え込むようになってしまった。
もちろん、響のことを忘れたわけではなかった。耳元で囁いてくれた愛の言葉、唇の感触、やさしい手つき。真尋の敏感なところを、強すぎず弱すぎない力で攻めてくれるのが好きだった。それを思い出しては自分で慰めた。
別れて半年も経っているのだから、そろそろ新しい出会いを求めないと。
そう思っているものの、響のことが忘れられずにいた。
今日も仕事を終えたら、あの味気ない1Kの部屋に帰って、響のSNSを眺めるだけの夜が待っている。華やかな写真の中で笑う響は、真尋と付き合っていたころとなにも変わらないように見えた。変わったのは、その隣に真尋がいないことだけだ。
「今夜、飲みに行こうぜ」
閉店作業の途中でスマホが鳴った。大学の同級生でゲイであることをオープンにしている
「んー。仕事も忙しいし、あんまり飲みにいく気分じゃないかな……」
「おいおい。お前さあ。まさかまだあいつのこと引きずってんの?」
「そんなんじゃないけど……」
図星だった。颯太はいつも勘が鋭い。真尋のウソなんてすぐに見破ってしまう。
「いいかげん、外に出ろって。お前、最近仕事以外で外の空気吸ってないだろ」
「……吸ってるよ。通勤のときに」
「それは移動って言うんだよ。いいから、今日、お前んとこの店の前で待ってるからな」
一方的に伝えると、ブツっと電話が切れた。
「お、おいっ!」
返ってくるのは通話終了の無情な画面だけ。
「仕方ないな……」
真尋はため息をついた。
仕事が終わって店の外に出ると、颯太が街灯の下に立っていた。真尋を見つけると、「よう」と言いながら右手を挙げる。
「……有言実行だな」
「ったり前だろ? 今日は二丁目の『月虹』でいいよな」
「……任せる」
「月虹」はゲイバーだ。颯太は、真尋に新しい出会いを見つけてほしいのだろう。同い年なのに、なぜか真尋のことを弟のように大切にしてくれる。同じゲイだということを知ってからは、なおさら。
「颯太が連れてくんなら、俺に断る権利はなかったわけだ」
「そういうこと。おとなしく楽しめ」
「……いい男がいなかったら早めに帰るからな」
「はいはい。まずは行ってから言え」
颯太は真尋の肩にぽんと手を置いた。その手があたたかくて、自分がどれだけひとりの時間に慣れてしまっていたかを思い知る。
五月の夜風が頬をなでた。まだ少し肌寒い。新宿に向かう電車の中で、真尋はぼんやりと窓の外を見ていた。ガラスに映った自分の顔は、我ながら覇気がない。寝癖のはねた後ろ髪を手で押さえながら、真尋は小さくため息をついた。
月虹は雑居ビルの三階にあった。重い扉を開けると、落ち着いた照明とジャズピアノの音が流れてくる。木目のカウンターに間接照明が反射して、琥珀色の空間が広がっていた。
「じゃあ俺はあっちの席にいるからな。なんかあったら呼べ」
颯太はそう言って奥のテーブルに向かった。真尋をひとりにして出会いのチャンスを作ろうという魂胆だろう。おせっかいなやつだ、と思いつつ、その気遣いがありがたくもある。
真尋はカウンター席にひとり座った。
「モスコミュールひとつ」
バーテンダーに注文すると、低くよく通る声で「かしこまりました」と返事があった。胸元のネームプレートには「片桐」とある。茶髪のウルフカットをハーフアップにまとめた、人懐っこい笑顔の男だった。
モスコミュールが目の前に置かれる。銅のマグカップの冷たさが指先に気持ちいい。真尋は頬杖をついて店内を見渡した。
好みの顔はいないな。
それに、店内ではすでにカップルができあがっていて、ひとりでいるのは真尋ぐらいだった。
「いらっしゃいませ」
片桐が声を出した。新しい客がきたらしい。
「こちらへどうぞ」
真尋の隣の席を勧めている。
「ウイスキー、ストレートで」
隣に座った客が注文をした。耳に心地よい、低い声だった。
横目でうかがうと、シャープな顎のラインが目に入った。スーツ姿を見るに、仕事帰りのサラリーマンなのだろう。
「お待たせいたしました」
片桐が隣の男にグラスを出した。
真尋がモスコミュールを口に運ぼうとしたとき、隣の男が話しかけてきた。
「今日はおひとりですか?」
真尋は男のほうに顔を向けて、思わず息を呑んだ。
好みの顔だった。それも、どストライクの。
切れ長の一重に、わずかに上がった目尻。鼻筋はすっと通っていて高く、横顔がきれいだろうと一瞬で想像できた。やや厚めの唇は形がよく、笑いかけてくれている口元から犬歯がちらりとのぞいている。スーツの襟元を少しゆるめた首筋に、仕事終わりの疲れと色気が同居していた。
心臓がとくんと跳ねた。慌てて視線をグラスに戻す。
……いや、落ち着け。顔がいいからってどうなるわけでもない。
「ええ、まあ」
失礼にならない程度のテンションで答えた。好みの顔だからといって、この男とどうこうなるつもりはない。まして、ワンナイトなどもってのほかだ。
「俺、
「あ、柊真尋です」
「柊真尋さん……。いいお名前ですね」
「……ありがとうございます」
真尋はそれで会話を終わらせようとグラスを口にして酒を流し込んだ。
「お仕事の帰りですか?」
けれど、晃はまだ話しかけてくる。距離の詰め方が自然で、嫌な感じがしないのがやっかいだった。
「はい」
「どのようなお仕事されているんですか?」
「書店で働いてて……」
「えっ? そうなんですか? 俺、本好きで結構読むんですよ」
晃はなにかを説明するとき、きれいな指をよく動かす人だった。本の話になると身振りが大きくなって、ストレートのウイスキーが揺れそうになる。そのたびに「あ、すみません」と照れたように笑う。
真尋は晃のほうへと顔を向けた。
本好きに悪い人はいない。それが真尋のポリシーだった。
「どんな本を読まれるのですか?」
気づけば自分から話しかけていた。
晃はカーヴァーが好きだと言い、真尋はイシグロの話を返した。酒も進み、互いの好きな本を挙げ合ううちに、カウンターの上には空になったグラスが増えていく。こんなに本のことで熱く語り合ったのは久しぶりだった。
響は真尋が本の話をはじめると、いつもどこか退屈そうにしていた。「またその話?」と笑われるのがいやで、途中から本の話を自分からすることをやめてしまった。
でもこの男は違う。真尋の言葉のひとつひとつに頷いて、ときに身を乗りだして反論してきた。本の話をしているだけなのに、こんなに楽しいのはなぜだろう。
「一ノ瀬さん、最近読んだ本で気になったのってあります?」
「そうですね……。『月が落ちたとき』かなぁ。ラストのシーンで感動して泣きました」
「わかります! 俺も号泣しましたもん。俺、その本が好きすぎて、店のPOP書かせてもらったんです」
「そうなんですか? ちなみに柊さんはどちらのお店で働いていらっしゃるんですか?」
「栞堂です」
普段ならこんなにペラペラ自分のことをしゃべらないのに、今日に限って口が滑らかだった。晃が本好きで話が合うからなのか、それとも隣にいて心地よいからなのか、わからない。
「えっ? 俺、その店よく行きますよ」
「ウソ? 偶然ですね。ありがとうございます」
「あそこのPOP、すごく好きなんです。的確で、でも押しつけがましくなくて。本当に本が好きな人が書いてるんだろうなって伝わってきて」
その言葉に、真尋は不覚にも胸が熱くなった。
「……うれしいです」
声が少しかすれた。POPを書くとき、真尋はその本の素晴らしさを伝えたいと思ってしまう。けれど、詰め込みすぎるとわかりにくい。パッと見て内容が伝わり、それでいて目をひく。そんなPOPを心がけてきた真尋にとって、これ以上ない褒め言葉だった。
耳が熱い。たぶん赤くなっている。酒のせいだと思いたかった。
気づけば、ずいぶん酔っていた。ビール二杯でも顔が赤くなるくせに、モスコミュールを何杯飲んだかもう覚えていない。
「真尋さん、って呼んでもいいですか?」
晃が少しだけ距離を詰めて、低い声で言った。颯太以外からその名前で呼ばれるのは、半年ぶりだった。
「真尋でいいですよ」
「じゃあ俺のことも晃って呼んでください。真尋」
名前を呼ばれただけなのに、背中がぞくりとした。晃の指先がすっと真尋の手の甲をかすめる。
「真尋、この後……」
断るべきだった。ワンナイトなんてしない主義だし、初対面の男についていくなんて、普段の真尋なら絶対にしない。
なのに、頷いていた。
晃の目がやわらかく細められた瞬間、真尋の中で半年間張り続けていた糸がぷつりと切れた。
カウンターの向こうで、バーテンダーの片桐がグラスを磨きながら、かすかに口角を上げたのを、真尋は見ていなかった。
◇
やってしまった――。
ワンナイトなんてありえない、できないって思っていたのに。初めて出会った男と、一晩を共にしてしまった。
ホテルの白いシーツの残像がまだ頭にちらついている。名前しか知らない男の大きな手の感触が、腕にも腰にもまだ残っている気がする。
「ありえねえ……」
翌朝、真尋は大きくため息をついて自宅マンションのエレベーターを降りた。酒が抜けきっていない頭で鍵を探していると、隣の部屋の扉が開く音がした。
「あ、おはようございます」
最近引っ越してきたらしいお隣さん。顔を合わせるのは初めてだ。
頭を下げてから顔を上げると――。
メガネをかけた、切れ長の目と目が合った。
どこかで見たことがあるような……。頭の中でぐるぐると考えを巡らせていたとき、目の前が真っ白になった。
それは昨夜、自分の名前を耳元で囁いた男。一ノ瀬晃が、パーカー姿で隣の部屋の前に立っていた。ゴミを捨てに行くようで、手にはゴミ袋があった。
「え?」
思考が止まった。足の裏から血の気が引いて、指先が冷たくなる。昨夜の記憶と目の前の現実がうまく結びつかない。
晃は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにやわらかく笑った。まるでなにも問題がないとでもいうように。
「……偶然ですね」
偶然。そうだ、偶然。偶然に決まっている。
だとしても。
お隣さんとワンナイトしてしまった――。
真尋は逃げるように自分の部屋に飛び込み、背中で扉を閉めた。心臓がうるさい。壁一枚向こうに、昨夜の男がいる。これから毎日、この廊下で顔を合わせるかもしれない。
薄い壁の向こうから、かすかにドアが閉まる音が聞こえた。
その事実だけが、真尋の頭の中で鳴り止まないアラームのように響き続けていた。
真尋の仕事終わりが晃の退勤時間と重なる日は、必ず晃が栞堂に迎えにきてくれる。一緒に帰るのが当たり前になっていた。 隣人だったときも同じ場所に帰っていたのだが、今は同じ部屋に帰る。玄関に入ると、「ただいま」「おかえり」をお互いに言い合って、キスをする。その瞬間がうれしくてたまらない。 今日はまさに、晃が迎えにくる日だった。 腕時計を確認すると、退勤時間まであと十分。もうすぐ晃に会えると思うと、真尋は商品補充にも熱がこもった。毎日部屋で顔を合わせているのに、おかしな話だ。 ワゴンに乗せてある本を次々に棚に入れていく。時間いっぱいまで、できるだけ本を補充しようと真剣に取り組んでいると、ととと、と足音が聞こえた。この足音の主は、POPイケメン追跡班の班長、山田さんだ。追跡する必要はなくなったはずなのに、どうしたのだろうか。「柊さん、柊さん」 振り向くと、やはり山田さんがそこに立っていた。「どうしたの?」「POPイケメンさん、もとい、柊さん彼氏さんが来ていますよ」「ああ、今日くるって約束してたから。外で待ってるんでしょ?」「いえ。店内にいらっしゃいます」「え?」 付き合いはじめてから、店にくるときには事前に連絡をくれていた。今日のように帰る時間が同じときは、いつも外で待ってくれている。なのに、急にどうしたんだろうか。「なんだか、不審な動きをしてるんですよね」 山田さんはわざと声をひそめてみせた。眉間に皺を寄せて、追跡班としての職務に戻ったような顔だ。「不審な動き?」「とりあえず、ご自分の目で。班長としてお伝えするのは、ここまでです」 山田さんはそれだけ言うと、踵を返して別の棚へ消えていった。班長の仕事はここまで、ということらしい。 別に、不思議なことではないはずだ。本好きの晃のことだ。真尋を待っているあいだに、おもしろそうな本を物色しているのかもしれないから。 真尋は手早く補充を完了して、ワゴンをバックヤードに置きに行った。そしてそのまま店内の在庫を確認するふりをして、
新居に引っ越して一週間が経った。朝、目を覚ますと隣に晃がいる。そのたびに、これは夢なのではないかと思うし、毎朝幸せな気持ちになる。まだこの状況に慣れない自分に呆れさえするが、それと同時に毎日が新鮮で愛おしい。 壁の向こうから聞こえる気配ではなく、肌で感じる体温。それが当たり前になるのに、もうすこし時間がかかりそうだ。 真尋は横ですうすうと寝息を立てている晃を起こさないように、そっとベッドを抜け出そうとした。ふいに手首を掴まれて、晃の胸のなかに引きずり込まれる。「おはよう、真尋」 晃の胸に抱きしめられて、朝から心臓に悪い。けれど、これも新しい日常なのだ。「おはよう、晃」 名前を呼び捨てるのにも、ようやく慣れてきた。最初の数日は、口を開くたびに「真尋さん」「晃さん」と「さん」がつきそうになって、お互いに笑い合ったものだった。今はもう、すんなり呼べる。それだけで、世界がすこし新しくなる。 晃の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。そうすれば、晃は同じか、それ以上の力を込めて抱きしめ返してくれる。いつも同じ気持ちでいられるのが、心地いい。「なんでひとり先に起きようとしてたん」 すこし拗ねた声が、頭の上から降ってきた。先に起きようとしただけだ。たったそれだけのことでも、一分一秒でもくっついていたい気持ちがある晃には、許せないのだろう。 真尋はくすくすと笑った。「だって、気持ちよさそうに寝てたよ?」「起こしてくれたらええやんかぁ」 甘えた声。一緒に暮らすようになって、晃は甘えるのが好きなのだと知った。それは真尋も同じで、甘やかしてほしいときには晃に甘やかしてもらい、晃が甘えたいときには、たっぷり甘やかす。持ちつ持たれつの関係だ。「睡眠は大事。ちゃんと寝れるときは、しっかり寝ないと」「ほな、もうちょい一緒に寝よ?」「だめ。今日は俺、出勤時間早いから」「ええー。しゃあないなぁ」 晃は真尋にチュッと音の出るキスをすると、むくっと起きた。明らかに眠たそうな顔をしている。寝起きの晃の髪は、相変わら
真尋はベッドにごろんと横になった。天井をぼんやりと見つめる。この部屋に思い入れは特にない。ただ、職場から近くて、安い物件だっただけだ。けれど実際に明日、この部屋を離れると思うと、なんとなくさみしく感じた。 新居では、晃とふたりで寝るためのダブルベッドを購入した。このシングルベッドも明日には処分する。この狭いベッドで、何度も晃と愛し合った。嫉妬に駆られて、無理やりに近い形で抱かれたこともある。恋人になってからは、大切に、やさしく、宝物のように扱ってくれた。 シングルベッドは狭すぎて、大人の男がふたりで寝るには窮屈だった。けれど、くっついて眠ることができた。いつも晃の大きな胸のなかに抱かれて眠るのが、好きだった。ベッドが大きくなっても、またくっついて寝たいな。そんなことを考えていたら、急に腹の奥が疼いてきた。「やばっ。明日朝早いから、早く寝たいのに」 スウェットの上から股間に手をやると、ゆるく兆しはじめている。晃の息遣いや手の動きを想像してしまったからだろうか。このまま寝ても、きっと中心がさらに熱を持って、目が冴えるに決まっている。 仕方ない。抜くか。 下着のなかに手を入れようとしたとき、スマホが震えた。画面を確認すると、晃からの着信だった。真尋はそれを見てビクッとした。 ――晃さんのことを想像して抜こうとしてたの、バレた? ドキドキしながら電話に出た。「晃さん?」「今、大丈夫?」「う、うん……」「ごめん。明日早いから、もう寝るとこやったやろ?」「ま、まあ、そうなんだけどさ……」 歯切れの悪い返事しかできない。晃に変に思われているのではないかと、背中に冷たいものが降りてきた。 いや、別にやましいことはしていない。青年男子なら、誰にでも起こる生理現象だ。「あのさ……」「うん?」「今から、そっち行ってもええ?」 晃が遠慮がちに聞いてきた。明日の朝は八時から荷出しがはじまる。だから本当は
晃に「大切な話がある」と言われて、真尋はごくりと唾を飲み込んだ。緊張が走り、手先が急に冷たくなる。なにか自分がしただろうかと思い返すが、なにも思い浮かばない。どくどくと耳の奥で、血流の流れる音がやけに大きく響いた。「あのさ――」 真尋は息を呑んだ。次にどんな言葉がくるのかと、そのまま息を詰める。キュッと拳を握ると、自然に関節が白く浮かんだ。 晃の表情は、これまで見たどの晃とも違っていた。仕事モードでもない。ふだんのポンコツでもない。なにかをこの上ない真剣さで言おうとしている、覚悟の顔だ。「俺たち、一緒に暮らさへん?」 思いもよらない提案に、耳を疑った。「え?」「あ、急にごめんな。実は、付き合いはじめてからずっと思っててん。隣同士でもええねんけど……その、俺はずっと真尋さんと一緒にいたいねん」 晃は恥ずかしそうに首の後ろをかいた。「……えっと」 真尋はまだ晃の言葉を飲み込むことができずにいた。一緒に暮らす。隣人ではなくなる、ということだ。「いや、その、今すぐってわけやないねん。っていうか、一緒に暮らせたらええな、って思っただけやし」 晃は慌てて両手を振った。 一緒に暮らす。言葉を小さく口のなかで転がすと、その意味がじんわりと胸に染みこんでくる。 仕事に行く前も、家に帰ってからも、晃が家にいる。お互いの家を行き来する必要がなくなるのだ。いや、隣同士なのだから、行き来はそんなに手間ではない。けれど、すぐに会いたいとき、一分一秒も待てないとき、待たなくてもいい。いつも晃がそばにいる。「好き」と言いたいときに隣にいて、抱きつきたいときには抱きつける。そして触れ合いたいときにも、手の届くところにいる。 こんなにも真尋は独占欲が強かっただろうか。自分らしくいられる晃の隣は、居心地がいい。自分の重い気持ちも受け取ってもらえるのが、心地いい。 響と付き合っていた三年間、真尋は同棲の話を一度もしなかった。したいと思ったこともなかった気がする。一緒に暮らしたら、自分の重さが
オーナーからのゴーサインが出た。真尋は早速、颯太に手伝ってもらいながら店のSNSを作成し、イベントを告知した。晃のアイデアは、真尋が書いたPOPをSNSに投稿することだった。真尋はそんなことでいいのかと半信半疑だったが、予想を上回る反響に驚いた。『なに? このイベント! 神!』『参加したい!』『気になる!』 次々とコメントがついて、たくさんの人が真尋のPOPを見てくれているのだと思うと、真尋は胸が熱くなった。書店員になってからずっと、夜中に下書きをしては書き直してきたあの一枚一枚の紙が、こうしてはじめて遠くの誰かの目に届いている。それが、不思議で、うれしくて、すこしだけ照れくさかった。 真尋は片桐にも同じ原稿を渡し、月虹のSNSでも告知してもらった。月虹には相当数のフォロワーがいるので、すぐに反応があった。バーの常連客が投稿を拡散してくれて、瞬く間にイベントの告知は広がっていった。 月虹のSNSでは、イベントの告知に加えて、座談会の登壇者も募集した。すると、おもしろそうだから出てみたい、とセクシュアリティをオープンにしているお客さんから連絡が入った。 ありがたい。事前にこれほど反響があるとは思っていなかった。できるだけ多くの人に座談会で話してもらいたいが、人数が多すぎると話がまとまらず、せっかくの企画が台無しになる可能性もある。 月虹の定休日に、真尋、晃、片桐、颯太の四人で会議を行った。会議といっても、ただみんなで集まって飲んでいるだけなのだが。「片桐さん、お客さんでこの人なら大丈夫っていう人、このなかにいる?」 真尋は、月虹のSNSのコメントや個別メッセージで立候補してくれた人たちのアカウント名を見ながら、片桐に聞いた。真尋には誰が誰だかさっぱりわからないし、実際に接客している片桐のほうが、その人となりをよく知っているはずだと思ったからだ。「んー、せやな。けっこうみんなどぎついこと話してくれるとは思うねんけど。真尋さんはこの座談会、どんな感じにしたいん?」「BL小説や漫画が好きな女性がターゲットだから、できるだけ内輪受けにならない方向で行きたいんです」
「オペレーション・グッドネイバー」という言葉が片桐の口から出ると、晃の様子が一気におかしくなった。晃は必死に阻止しようとしていたが、片桐は風に揺れるのれんのように、のらりくらりとかわしている。「もう、ええんやって。真尋さんと付き合うことできてんから!」「せやから話すんやんか。暴露したほうが楽しいやろ?」「裏話は話さへんからええんやんか」「いや、それはちゃう。知ってもらうことで、その内容の奥深さを理解してもらえるんや」 よくわからないが、片桐と晃がやいやい言い合っているのを見ると、そのオペレーションに相当気合を入れていたのだろうと思えてきた。 月虹のカウンターの奥で、間接照明がアンバー色の光を揺らしている。今日は店の定休日だ。普段ならカクテルの注文が飛び交うこの空間に、今は四人しかいない。テーブルに置かれたタパスの皿はおおかた空になり、グラスのなかの氷だけが、ちりっと小さな音を立てる。 颯太はひとり、静かに酒を飲んでいる。いつもなら真尋に害が及ばないよう、周りに目を光らせているはずだ。だが、今夜は様子がおかしい。それに、いつもなら「オペレーション・グッドネイバーってなんだ!」と食ってかかるはずなのに、今夜はおとなしくグラスを傾けている。それも気になる。「颯太、なんかあったのか?」「なんでだ」「いや、なんかいつもと違うっていうか。だいたい晃さんのこと、あれだけ警戒してたのに、今はそれもなくなったから」 颯太はカクテルグラスの縁を指でなぞった。「うん、まあ、いけすかんやつだが、真尋が好きになった相手だしな。それにまあ、いろいろ話を聞けば、悪いやつじゃなさそうだし……」 なんとなくいつもより歯切れの悪い返事を不審に思ったが、真尋は「そっか」とだけ返した。「ことの発端は、二年ほど前のことです」 片桐がまるで講談師のように語りはじめた。張り扇がないので、代わりにパン、と手でテーブルを叩く。「ある日のことでございます。一ノ瀬晃は、街の本屋さんに、ふらりと立ち寄ったのでございます。書店の名は――